最後からx番目の晩餐

まいにちの夕飯は、いつだってそれが「最後の晩餐」になる可能性をもっている。

2014年4月20日(チャーハンの話)

自宅にて、妻と。

卵チャーハン、ソラマメと余り物の味噌炒め、サツマイモとリンゴのバター煮。

 

チャーハンは作らないつもりだった。嫌いな料理というわけではないのだが、作りたくないと思っていた。どういうわけか、ネット上で炊事の話題になると、チャーハンをいかにおいしく作るかという話題が出がちだ。「ぱらぱら」なチャーハンというのが大人気らしい。私にはよくわからない。チャーハンに対して「ぱらぱら」という評価規準をもったことがない。なにがぱらぱらだ。よくわからない規準について騒がしく語られるのを見て、私はチャーハンが嫌いになった。

そもそも、チャーハンをつくる必要性というのが感じられない。炊きたてご飯はそのまま食べるのがうまい。冷凍保存しておいたご飯だって、温めれば炊きたてと遜色ない。チャーハンにすることによって、ともすればイマイチおいしくないご飯に変質してしまうならば、白ご飯のままで食べるほうがいいに決まっている。

おそらく、チャーハンという食べ方は、家庭に冷凍・解凍技術が普及する以前に形成された知恵なのではないか。数十年前、電子レンジが広く一般家庭に浸透する以前においては、冷やご飯はお茶漬けかチャーハンにして食べるのが定番だったのではないか。電子レンジが普及してからも、ご飯の保存には炊飯器の保温や冷蔵庫保存でよいとされていた時期が長かったのではないか。

以前は、チャーハンで食べるほうが確実においしいから作られた。フライパンや中華鍋を使い、油汚れも顧みず、手間を掛けてチャーハンを作る。そういう時代があったのだ。

いま、チャーハンをつくることは、趣味・嗜好の範囲だといえるだろう。食べたいから作る。素晴らしいことだと思う。そして、そんな素晴らしい時代において、私は別にチャーハンが好きだとは思わないから、作らない。そう考えていた。私には、その料理を作ることもできるが、作らないという選択もできるのだ。素晴らしいことじゃないか。

しかし、そんな風に毛嫌いし続けているというのも、おかしな態度だと思う。日々の鍛錬により、ずいぶん炊事は上達してきた。ここらでチャーハンと向き合い直すのも一興だろう。

ご飯は、前日に炊いて冷凍保存してあったものを使う。熱すぎない程度に解凍しておく。具材は、卵、ハム、小ネギ。

はじめに長ネギとショウガのみじん切りをサラダ油で炒め、そこへ溶き卵3個分を流し込む。お玉でかき混ぜながら、少し固まってきたところでご飯2杯分を入れる。ご飯は、切るのではなく、お玉の底で叩くようにして分離させていく。こうすることで「ぱらぱら」になるらしい。きょうの料理でどこかの料理研究家がそう言っていた。しばらくご飯を叩きながら炒め、刻んだハム、刻んだ小ネギ(これは数日前に刻んで冷凍保存していたもの)を追加。塩コショウを少なめに振る。なじんだところで、醤油を小さじ2程度、鍋底で焦がすようにしながら入れ、全体に混ぜ込む。さいごにゴマを振って完成。

うまい。驚いた。自分で作ったのに、どうしてこの味になったのかわからない。いかにも化学調味料を使ったような旨味があるが、そんなものは使っていない。最初の油が利いたのか、あるいはハムから味が出たのか。

妻が言うには、とても美味しいが、もっと「ぱらぱら」だともっといいだろう、と。なるほど、これはぱらぱらではないのか。やはり私にはその価値基準はよくわからない。また作ってみよう。そのときは、チャーハンの魅力がもっとわかるかもしれない。


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